迷鳥の歌

 辺りは沈黙に包まれている。
 静寂というよりも重たいそれに身を縮めながら、那智はとぼとぼと回廊を歩いていた。両脇には聖歌隊のような少年たちが、階段状になった足場に整列して一様に口を閉ざしている。人形ではないかと思うほど微動だにしないけれど、視線だけははっきりと那智に注がれていた。那智は、息をするのも憚られて固く唇を引き結ぶ。
 歌ってはいけないのだ。どうしてかそれを知っていた。だから少年たちは沈黙していて、那智も懸命に押し黙っている。もし音の一つでも発すれば―――。
 そのとき、ひらりと羽根が舞うようにソプラノの歌声が遠くから響いた。(ああ、)どうしよう。いけないのに。私の声ではないけれど、(私じゃない、私は……)
 嫌な予感がして辺りを見回すと彼らの目つきは厳しいものに変容している。憤怒の表情を浮かべる天使たちに恐れをなして、なんとかしてあの声を止めなければと焦る中、やはりもう一度歌声が高らかに鳴った。

「やめて……」

 控えめなものだったが、咄嗟に言葉が溢れる。慌てて手のひらで口許を押さえても既に遅く、責め立てる視線が無数の矢のように突き刺さっていた。那智はたまらず走り出した。歌を止めなければ。ソプラノは美しい旋律を回廊に響かせている。
 ようやくたどり着いた円形のホールは白くあかるかった。息を切らせながら音の出どころを探そうと、自然と上部を仰ぐ。そこに滞留する音は旋回して飛ぶ鳥のように那智には見えていた。

「歌わないの?」

 声がして、はっとしてそちらを見る。那智からそう遠くない位置に白いテーブルがひとつと椅子が二つあって、そこに旅人がひとり座っていた。彼は男の人だったけれど、あの翼を得て飛ぶ歌声は彼の仕業だと那智には思われたので声を潜めて「あれを止めてください」と必死に指差した。

「何故?」
「だって、歌ったら、駄目なんです。私のせいだと思われちゃうから、」
「君は歌っていないのに、どうして君のせいになるというのかい」
「だって」

 那智は次に、あの歌声が本当は自分のものなのだという気がしてきた。あんな自由に、まるでそこに楽園を見つけるかのように、下界の迷惑も顧みずに自分勝手に。美しいものが世界の真実だとしても、それを閉じ込めておかなければならないときがある……というのを那智の歌声は“解りはしないだろう”。上手に檻に入れて隠していたはずだ。それをこの人が取り出してしまったに違いない。
 生まれた確信に応えるように旅人は上方へ語りかけた。「歌っておくれ」
 歌声はもう一つ重なって、喜びのハーモニーを作る。ああ、いけないのに。そんなに煩くしては――。

「ねえ、歌姫さん。君はあれを、もう一度捕まえなくてはいけないよ。だってあれは元々君の腹から生まれ、胸に棲み、喉から飛び立った麗しい鳥だ。あんなに美しいものをどうして閉じ込め、手放してしまったの?」

 那智はこれを、聞きたくなかった。それで無我夢中になってこう叫ぶ。

「知らない、知らない! 殺して! あんな鳥、殺してしまって!」



/



 音楽準備室で壁越しの歌声を聴きながら、那智はひとりパンフレットを折っていた。次のステージで観客に配るためのもので、部員の紹介やこれまでの活動と実績、それから新入部員を募集する記載が写真やイラスト付きで可愛らしく纏められている。彼女はその、部員の名前の欄から自分の名前を消してしまったらいいんじゃないかとか、消されてしまったらどうしようとか、正反対の心配をさっきからぐるぐると繰り返している。時折憂鬱になってそっと自分の口許に触れるけれども、息すら通る気配がない。
 九年ぶりに声が出なくなってしまった。病気とかではなく、過去の習慣によるものだ。八つまで祖母のいる田舎に暮らしていたが、閉塞的なその地域では女性が口を開けることを歓迎しない。食事も普段の会話もほんの僅かだけ唇に孔を通して行い、不要な場合は声を出すことも厭われた。歌なんてもってのほかで、幼い那智に至っては自分も男の子たちのように大声を出したり歌ったりできるということ自体知らないなんて有様だった。町に引っ越してきてからも声を出すのは得意ではなかったけれど、やがては周囲に馴染めるくらいになって、かつての習慣もすっかり忘れてしまったのではと思うほどだったのに―――、ある朝突然、口を開けなくなったのだ。
 うたえません。そう伝えた静かな音を顧問の教師は何度も聞き返しわけを問い糺したが、今の那智には長々とした説明はできなかった。音を連ねるごとにひどい罪悪感が募って、言葉はだんだんと掻き消えていってしまう。流石に様子が可笑しいことは察してくれたようで、しばらく練習を休むよう勧めたり、保健室にカウンセリングの手配をしてくれたりもしたのだがそれもまた申し訳なくて心に重かった。
 休憩に入ったのか音楽室側の空気が和む。ノックののちに部長が現れて「那智も休みなー」と一声かけてくれたので、頷いて席を立った。

「そういえば、那智さ」

 音楽室とを隔てるドアをわざわざ一度閉めて彼女が振り返る。「今回、乗る?」
 どきりとした。省略された『ステージに』の言葉を探すように視線を返すと相手は気まずそうに慌てて、変な意味じゃなくてね、と続ける。

「また歌えるようになったら普通に乗ればいいんだけど。その、歌えないままだったときに……出来れば一緒に乗ってほしいって私は思うんだけど。みんなで頑張って準備してきたし、さ、でも、口パクとか那智が嫌だったらと思って……」
「……」

 そんなの、迷惑じゃないですか?
 問いかけたい言葉は鼠返しでもあるみたいに胸から上がってこない。那智は過去の習慣に倣って静かに瞼を下ろし、少しだけ首を垂れた。
 それを部長がどのように捉えたのかは分からなかったが、よかったらまた相談して、と困ったように笑ってドアノブに手をかけた。すると急にノブがおりて「話終わりました?」とひとりの生徒が扉から顔を出す。

「きゃ! ……維羽(いう)! びっくりさせないでよ」
「さーせーん。なっちー自販機付き合ってよ」

 言うや否や彼女は頭を引っ込めてしまった。その素早さに部長と顔を見合わせたが、先に向こうが破顔して「行ってやって」と戸を開けるのでまた軽く礼をして維羽を追いかける。
 音楽室の戸口で待っていた彼女は那智が追いつくとその手を取って引っ張った。那智は、戸惑っていた。学年は同じだがクラスも違って、特別仲良くしていたわけでもない。全く話さないわけではなかったけれど、わざわざ連れ出されるような間柄ではなかったのだ。那智個人の視点だけでいえば、維羽のことを少しだけ気にかけてはいたのだけれど。

「部長もぶきっちょだよねぇ。あの言い方じゃほんとは降りて欲しいみたいに聞こえちゃうよ」
「……」聞いてたの、と心の中でつぶやく。まあ、聞いていたんだろう。そういう登場の仕方だった。
「一応フォローしとくけど、あの人ほんとのほんとに歌わなくてもいいから一緒に乗って欲しいって思ってるみたいだよ。練習にもできれば混ざってほしいみたい」

 ずっと気にしてるんだよね、と溜息をつく維羽はやれやれとでも言いたげだ。本当に一年生なんだろうか。
 繋がった手の温度差を感じ始めて、なんだか居心地が悪くなる。維羽のほうが温かいような気がするし、冷たいような気もした。

「私はやだけど」

 足が止まる。彼女が振り返ったのと同時に手は離されて、手首はすっと寒くなる。
 この廊下は不思議としんとしていて、ほかの部活はやってないんだろうかといつも心細くなった。その静寂に、「那智には歌って欲しい」と確かな声音が生まれていく。

「歌えなくなる前の日さ、覚えてる? パート混ぜて練習して、私となっちー、隣になったの」

 那智はこれを覚えていた。歌えなくなる前日のことだというのは意識していなかったけれど、確かに言われてみればそうだった。
 ぎこちなく頷くと維羽は「あのときすごくいい感じだったじゃん。今まで聴いた中で一番良かった」と接ぐ。「私絶対、なっちーには歌って欲しい」意思というよりもむしろ決意のような音をしている。部長のそれとはまた違う――つまり部活動の仲間意識とかそういうものとはどこか遠い、鬼気迫った表情だ。
 それはすぐに翻って、いつもの軽薄なかんじの微笑みとともに「こんな御伽噺、知ってる?」と維羽は切り出した。那智が話さなくてもおかまいなしなところは今とても助かるけれど、気を遣ってくれているのではないかと心配にもなる。維羽の自由奔放なところが好きだった。その姿に憧れていたから。
 階段を一段一段降りながら彼女は聞いたこともない物語を語った。

「…むかーし昔、美しい音を食べちゃう魔物がいたの。歌や、女の人の優しい声も大好きでね。魔物に食べられちゃうから近くで暮らす人々は口をつぐんで生きていた」

 あるとき偉大な魔法使いが街に立ち寄って、話を聞いた彼は人々に、声を鳥へと変える魔法をかけた。すぐに放てば魔物はその鳥だけを食べるので、街の人達はまた言葉と歌を取り戻すことができた。
 しかし一人の娘が、生まれた一羽の歌の鳥をあんまり可愛く、愛しく思ったので、蔵の中の鳥籠に入れて空に放たなかった。すると魔物は美しい鳥の囀りの出どころを探って手当たり次第に街の人達を襲い始めてしまった。
 娘が慌てて鳥を放つとその歌は美しく鳴り渡り、羽を広げてあっという間に空の彼方へと消えていった。魔物もまたそれを追いかけて飛び去り、街には平和が訪れた――。

 維羽は踊り場の大窓から空を眺めている。なんとなく那智のほうも、階段の天井を仰いだ。何かあるような気がしたけれどそこには蛍光灯がそれぞれの位置に行儀良く並んで収まっているだけだ。
 どう思う?と問う声がそこに響いて視線を戻す。

「なっちーはさ、この『娘』のこと、悪い人だなあって思う? 人々を危険に晒すかもしれないのに、『歌』を閉じ込めたりして」

 那智はあんまり悩まずに頷いた。結果的に魔物がいなくなって街は救われたかもしれないが、それでも人が襲われたのだ。
 けれど、相手は「そうかなあ」と小首を傾げる。維羽のふんわりとした二つ結びの片方が、肩の上で身を捩った。

「私は魔法使いのほうがよっぽどひどいと思うな。食べられる為の鳥がそんなにキレイだなんて」
「……」不思議なことを言うのだな、と考える。確かに言われてみれば、そういう見方もあるのだろうか。
「それにさ、可哀想に思うよね。歌も言葉もきっと、誰か別の人に届けるためにあるでしょう。他の歌や言葉と飛び交って遊んだりすることもできるのに、魔物に食べられておわりなんてそんなの可哀想」

 ……そうだろうか。美しいものが世界の真実だとしても、それを殺さないといけないときはある。そもそも、生み出しさえしなければもっとよかった。そうすれば可哀想な鳥もいないし、魔物も人を襲わない。
 なんだか気分が悪くなってしまいそうだったので、やっぱり深く考えるのはやめて首を振った。悲しいような、自分のことが許せないようなどうしようもない感情が胸に蟠っている。ふいに口に息が通っているのを感じたのに、慌てて止(とど)めてしまった。歌が戻るかもしれないのに――いいや、取り戻していいのだろうか。那智は自分が、歌ってはいけない気になっているのにそのときやっと気がついた。罪悪感が募るのだ。言葉よりずっと。
 それを見ていた維羽はなんだか残念そうに小さく苦笑して、ここには魔法はないからなあ、と呟いた。改めて笑みを作った彼女が次に、「なっちーってなんで合唱部入ったの?」と問うてくる。
 この質問を彼女にされるのは那智にとって特別なことだった。それでどうしても答えたくて、止めた息を解放してしまう。

「憧れてたから、」
「歌うことに?」
「あ、朝倉さんに」

  私? 不思議そうに自分を指差す維羽を一生懸命見つめながら、那智は二度も三度も頷く。
 彼女を初めて見たのは七歳の頃だった。小鳥のような愛らしい歌声が聞こえるのにびっくりして家の窓から顔を出すと、見知らぬ女の子が歌っていたのだ。そう――女が声を出してはいけないあの地で、大口を開けて。
 たぶん、他所から来ていて村の習慣を知らなかったんだろう。やがて男達が集まってきて物凄い剣幕で彼女を叱りはじめたものの、拙い言葉で果敢に反論した上、最後には彼らの手を逃れて行方をくらますその一部始終を那智は見ていた。
 それから毎日、歌う少女のことを考えた。自分も歌えるんだろうか、と夢見て、居ても立ってもいられなくなって母親に「うたってみたい」と打ち明けた。母は驚いたけれど、すぐに父にもそれを伝えて村を出る決意をしてくれた。元々父も婿養子であの村に入ったひとだったので、抵抗がないどころか娘のために是非出ようと考えてくれたらしい。そうして移り住んだ町で沢山のことばや歌に触れ、こちらでの当たり前の生活が那智にとっても馴染み深くなり、小中と学年を進めて――入学した高校で、再び彼女を見つけたのだ。

「むかし……田舎で、歌ったのを怒られなかった?」
「……あー、そんなこともあったかも?」
「そこに住んでたの。だから……」

 不思議とすぐに彼女だと分かったのは、その声の色をずっと思い返していたからかもしれない。合唱部に入ったのは、けれど、確かに歌うことに憧れていたからで、維羽が入部するかしないかまでは念頭になかった。一緒に歌えるのだと知ったときは本当に嬉しかったけれど、そんな話をしたら驚かれるんじゃないかと思ってずっと黙っていた。
 全部を聞いていないのに維羽ははにかんで笑ってくれる。「嬉しい」

「追いかけてきてくれたんだ?」
「そっ……」そういうわけじゃ。だけど広い意味ではたしかに、「そうかも……?」
「ふっふっふ」

 含み笑いをしてから改めて、うれしい、と零す彼女の声音。きっと鳥に変化したら素敵な色をしているに違いない。そう思ったら、たとえ食べられてしまうのだとしても、「言わなければよかった」なんて後悔は絶対してほしくないものなんだとわかる。那智の歌のこともそう思って貰えるんだろうか。そう思ってくれたから、こうして手を引いて空の下まで連れてきてくれたんだろうか。
 彼女はまた、那智の手をとった。維羽の手も、那智の手も、どちらも熱を持って温かい。

「なっちー、忘れないでね。たとえ歌わなくても、歌えなくても、歌はいつでもすぐそばにいるよ。それは君の腹から生まれ、胸に棲み、喉から飛び立つ準備をしているの」

 きっと、誰かを明日に導く為に。
 囁きは心に降り立って、閉じ込めた感情を放つ。吹き返した息で那智はただ、「うん、」と答えた。


/


 白いホールの天井が吹き抜けていた。そこにはもう鳥はいなくて、ただ風だけが吹いている。
 旅人が席を立つ音がしたので、那智はそちらに視線を移した。

「もうここには魔法はない。けれど、魔物もいない」

 穏やかな声がそう紡いで、彼は微笑んだ。

「歌って、いいの?」
「歌っておくれ。あの日の鳥の美しさを――ずっと、忘れられないでいた」

 どこからかソプラノの歌がひらりと舞い降りてくる。美しくて、自由で、いつか手放してしまったものに似たそれは、たぶん彼の仕業。
 嬉しくなって空の真下へ歩みを寄せた。その遠いあおの先できっと、誰かが耳を澄ましている。